Se connecter篠宮君が「今日は一緒に帰るのをやめておく」と言った朝から、私たちの間には、昨日まで存在しなかった透明な壁のようなものができてしまった。
喧嘩をしたわけではないし、何かひどいことを言われたわけでもないのだから、いつも通り話しかければいいだけだと頭ではわかっているのに、一度「距離を置かれているのかもしれない」と考え始めると、人間というのは本当に厄介なもので、今までなら気にも留めなかった些細な仕草まで全部悪い方向へ見えてしまう。
一時間目が始まる前、篠宮君は自分から話しかけてこなかった。
昨日までなら、意味もなく「高梨」と呼んできて、「何?」と聞けば「いや、いるか確認しただけだ」などと訳のわからないことを言っていたくせに、今日は自分の教科書だけを見ている。
二時間目の休み時間、私が消しゴムを落とした。
昨日までなら誰より早く拾ってくれたのに、今日は一瞬だけこちらを見て、それから動かなかった。
別に、自分で拾えばいい。
私は十七歳で、消しゴムくらい一人で拾える。
なのにしゃがん
第58話 「今日は別々に大学を見に行こう」恋人と一日離れてみたら、話したいことが増えました 土曜日の朝、私はいつものデートの日より少しだけ早く家を出た。 ただし、今日は篠宮君と待ち合わせをしているわけではない。 私は西園寺綾乃さんと建築学科の公開講座へ行き、篠宮君は相沢君と別の大学のオープンキャンパスへ行く予定になっている。 同じ日に別々の大学を見に行く。 文字にしてしまえばそれだけなのだけれど、付き合い始めてから休日に二人とも外出するのに、最初から別行動だと決めたのは初めてだった。「紗季、忘れ物ない?」 玄関まで見送りに来た母が聞く。「スマホ、財布、案内、筆記用具。大丈夫」「昼は?」「大学で食べる。学食も見られるらしいよ」「綾乃さんと?」「うん」「蓮君は?」「相沢君と別の大学」「本当に別々なんだ」「何、その意外そうな顔」「だって蓮君なら最後まで『同じ大学も見られない?』って言いそうじゃない」「言わなかったよ」「成長したのねえ」「本人もそれ気にしてた」 昨日の夜、篠宮君から届いたメッセージを思い出す。『明日、本当に別々でいい?』 そう聞かれたので、『いいよ。夜に感想交換しよう』と返した。 すると少し間を置いてから、『それなら楽しみ』と来た。 少し前なら、「一緒に行かない=自分といたくない」と考えたかもしれない人が、今は別々の経験をあとで話すことまで含めて楽しみにしている。 その変化は、私にも少し嬉しかった。「じゃあ行ってきます」「行ってらっしゃい。将来決めてこなくていいからね」
第57話 「婚約者候補だった頃、本当は建築家になりたかったの」彼女が選んだ進路を聞いて、御曹司は初めて謝りました 週明けの月曜日、私は進路希望調査の用紙を鞄へ入れたまま、朝から提出するかどうかを迷っていた。 大学進学希望。 興味のある分野は、経営と食品・商品開発。 そこまでは書いた。 けれど昨夜になって改めて読み返してみると、本当にこれが自分の興味なのか、それとも母がパティスリー・ソレイユを経営しているから、何となく自分もその延長線上へ進もうとしているだけなのか、急にわからなくなってしまったのだ。「高梨、さっきからその紙三回出したりしまったりしてるけど」 隣の席から篠宮君に言われ、私は進路希望調査を半分だけ鞄へ戻しかけた状態で止まった。「見てたの?」「見えるから」「最近みんな私の細かい行動に気づきすぎじゃない?」「わかりやすいんだと思う」「篠宮君に言われたくないなあ」「俺もわかりやすい?」「かなり」 そう答えると、篠宮君は少し考え、それから妙に嬉しそうな顔になった。「何でそこで喜ぶの?」「高梨が俺のことわかるって意味だから」「そうやって何でも恋愛に変換しないで」「でも違う?」「違わないけど、今は進路の話でしょう」「はい」 篠宮君は素直に引いた。 私はもう一度用紙を机へ置く。「篠宮君はもう出した?」「まだ」「何で?」「俺も少し書き直したい」「何を?」「興味分野」 見せてもらうと、昨日まで「経済・国際関係」と書いていた欄へ、薄く消しゴムをかけた跡が
第56話 「次のデートは、私が蓮司を連れていく」御曹司に初めて“私の普通”を案内することにしました 月曜日の朝、教室へ入ると、黒板の端に大きな文字で「進路希望調査・金曜提出」と書かれていた。 見た瞬間、私は思わず足を止めた。「うわ、来た」「何が?」 すでに隣の席へ座っていた篠宮君が顔を上げる。「進路希望調査。見えない?」「ああ」「その反応、薄くない?」「前からそろそろ来ると思ってたから」「私は見ないふりしてた」「見ないふりしても来るよ」「わかってるよ。だから嫌なんでしょう」 鞄を机へ置きながら黒板を見る。 二年生なのだから、まだ最終決定ではない。 それでも進学するのか、就職するのか、大学ならどんな学部なのか、少しずつ具体的に考え始めなければならない時期ではある。 私自身、大学へ行きたい気持ちはある。 ただ、何を専門にしたいのかと聞かれると、まだ自信を持って答えられない。 母の店が好きだから、将来ソレイユに関わることも考える。 でも、それは「母がケーキ屋だから私も」というだけで決めていいのかとも思う。「高梨は何書くの?」「今それ聞く?」「嫌なら聞かない」「嫌じゃないけど、まだ決まってない」「大学?」「たぶん。でも学部までは迷ってる。経営とか食品とか、全然違うこと勉強するのもいいなと思うし」「ソレイユを継ぐ?」「それもまだ決めてないよ」 答えながら、ふと篠宮君を見る。「そういう篠宮君は?」 今度は彼が少し黙った。
翌朝、教室へ入った私は、自分の席へ鞄を置くより先に、美咲から予告されていた質問を本当に投げつけられた。「紗季、おはよう。それで、遼一さんって格好よかった?」「おはようより後に聞いたから一応順番は守った、みたいな顔しないで」「だって気になるじゃん。二十五歳で海外の大学出て、投資会社にいて、しかも九条家の血を引いてるんでしょう? 設定だけ聞いたら少女漫画の途中から出てくる当て馬みたいじゃん」「美咲、本人は勝手に後継者候補にされたことで迷惑してるんだから、そういう扱いしないでよ」「わかってるって。だから本人の中身じゃなく、単純に見た目の話」「その単純な話が今一番面倒なの」 私はため息をつきながら椅子へ座った。 隣では篠宮君が数学の問題集を開いている。 さっきから一度もこちらを見ていない。 でも、ページがまったく進んでいない。「篠宮君」「何?」
火曜日の昼休み、私はいつものように自分の机を篠宮君のほうへ少し寄せ、弁当箱の蓋を開いたところで、隣から妙に言いにくそうな声をかけられた。「高梨」「何?」「一つ、聞いていい?」「内容によるけど、聞くだけなら」「今週の木曜日、放課後って店の手伝いある?」「あるよ。でもずっと厨房に入ってるわけじゃないから、どうしたの?」 篠宮君はそこで一度スマートフォンへ視線を落とし、それから私を見る。「遼一さんが、高梨に会いたいって」「遼一さん?」「うん」 神谷遼一さん。 九条宗一郎さんの孫で、篠宮君の代わりとなる「第二候補者」として、本人の知らないところで名前を使われていた人だ。 篠宮君とはすでに直接会い、今のところ後継者になるつもりはないけれど、何も知らないまま拒否するのも嫌だから、自分で九条家を見たうえで
美咲が篠宮君の素顔を初めて見た翌日の月曜日、私は自分でも少し面倒だと思う感情を抱えていた。 朝のうちは、まだ大したことではなかった。 美咲が学校用の特殊メイクをした篠宮君を何度も見てしまい、「本当に同じ人なんだよね」「声と仕草が同じだから、見てるとだんだん昨日の顔が重なってくる」と小声で言っていた時も、私はむしろ面白がっていた。 ところが二時間目が終わった休み時間、美咲が私の机へ寄ってきて、誰にも聞こえないよう声を落として言った一言が、妙に胸へ残った。「でも紗季、改めて言うけど、素顔の篠宮君、本当に格好いいね」「……うん」「ネットの写真より実物のほうがいい。写真だと完璧すぎてちょっと近寄りがたいけど、実際は笑うと普通に高校生っぽいし」「そうだね」「あと眼鏡外した時、目が思ってたより優しい」「美咲」「何?」「よく見てたね」 言った瞬間、自分でも声が少し